今週のポイント解説(27) 09/30~10/06
TPP報道が気持ち悪い
10月6日付新聞各紙の一面は例外なく「TPP大筋合意」の見出しが躍っていました。9月30日(日本時間1日未明)にアトランタで始まったTPP閣僚会議は、当初予定の2日間では合意への突破口も見えず、予備日を使いさらに延長して協議は4日深夜にまで及びました。出席者のリークを頼りに少ない情報をもとにした連日の報道は注目され、6日はお昼のワイドショーから夕方以降のニュース番組までかなりの時間をさいてこの問題を扱いました。
すべてを見たわけではありません。しかし、ぼくは納税者として経済学教員としてNHK受信料負担者、日本経済新聞、朝日新聞購読者として、ひたすら気持ち悪かったのです。
(1)「食卓はこう変わる」が気持ち悪い
お昼のワイドショーは許せるとしましょう。しかしNHKの9時のニュースと日本経済新聞朝刊の3面は一番気持ち悪かった(日誌資料6)。「肉やワイン、輸入品安く」、え?牛肉は1年目から4%安くなるかも、チリ産ワインもチーズも安く、とどめは「コメ、米国や豪州産が身近に」!「でもフランスはTPPに参加していないですし、豚肉や鶏肉はあまり安くはならないですね」。消費者の声、「安くなるのは家計が助かるわ」とスーパーで買い物中のご婦人。なんなんですか、この気持ち悪さは。
どうして交渉は難航したのでしょうか。どの国も自国生産物を少しでも保護したくて、つまり関税を維持して輸入品が安くなりすぎないように努力したからでしょう。例えばアメリカCNNが「これで日本車が安くなります」と笑顔で伝えたら気持ち悪いでしょう。
(2)「聖域」公約に触れないのが気持ち悪い
民主党政権時代、野党だった自民党はTPP断固反対の立場を表明していました。政権を取り返したときの選挙公約は「聖域を守る」でした。「聖域」とはコメ、小麦、牛・豚肉、乳製品、砂糖(甘味料作物)です。いずれも高関税によってかろうじて生産者が保護されている分野です。本来「例外なき関税撤廃」が目的のTPPに、後から参加した日本が「聖域」を持ち込むこと自体おかしなことでした。それでも公約です。「聖域」とは『広辞苑』によると「犯してはならない、手を触れてはならない分野」です。
結論から言うと、そうすべて交渉の対象となり、すべての分野で譲歩しています(政府は「関税撤廃はしていない」と言いますが)。明らかに公約違反でしょう。なぜメディアは指摘しないのでしょうか。それどころか関税が引き下げられてよかったかのような報道は気持ち悪くありませんか?
(3)反対勢力がおとなしいのが気持ち悪い
貿易自由化には当然のことながら国内産業分野によってメリットもあればデメリットもあります。利害関係者は必死です。ポイント解説(13)でも指摘したように、アメリカ議会は貿易自由化によって損失を被る人々に対する対策が伴わなければ交渉そのものを大統領に委ねることを許しませんでした。ニュージーランドの乳製品関連団体もアメリカの医薬品メーカー関連議員も、現地張りつけで交渉を見守っていました。日本の農業、酪農関係者はどうだったのでしょうか。
報道では生産者の声として「厳しくなるが仕方がない。あとはなんとかして欲しい」という訴えを流します。反対ではなく助けを請う姿を映し出します。なんの理解を得ようとしているのでしょうか。7月20日付日本経済新聞では「自民農林族、TPP妥結にらみ予算確保狙う」という記事が報じられていました。かれらは複数年で「国費で最低でも1兆円の確保」を主張していると。つまりTPPに反対するよりも来年の参院選に向けてバラマキを狙っているのだと。早くも6日には安倍首相が記者会見でコメの買い上げなど農業対策を表明していました。つまり自由化デメリットは財政赤字で埋めるということです。
そうなれば財政赤字は拡大し、将来の社会保障費を圧迫します。つまり肉や果物や乳製品が安くなるというのは将来の社会保障費を「先食い」していることになるのです。気持ち悪くありませんか?
(4)何が輸出拡大できるのかを問わないのが気持ち悪い
ではTPPのメリットとはなんでしょう。言うまでもなく輸出の拡大ですね。ニュージーランドが最後まで乳製品の輸入枠拡大を参加国に要求したように。日本にとって最大の目的は自動車分野だとされてきました。現在日本からアメリカへの自動車輸出には2.5%の関税がかけられています。これを25年かけて段階的にゼロにするということになりました。25年先の2.5%なんて、為替レートなら一日で動く幅です。
しかも「原産地規制」というものがあって一定比率以上TPPに参加する国で生産された部品を使っていなければメイドインTPPとはみなされず関税撤廃の対象となりません。日本の自動車部品の海外生産はタイやインドネシア、つまりTPPに参加していない国での比重が高く域内比率は40%程度です。「合意」ではこれを55%以上としました。すると日本は15%以上も生産拠点を移転しなければなりません(あるいはタイなどがTPPに参加しなくてはなりません)。
これは大きな成果なのでしょうか。どう考えても他分野での譲歩とは釣り合いがとれないでしょう。だからといって輸出拡大分野についてメディアの扱いが極めて小さいことは、やっぱり気持ち悪いのです。
(5)関税問題以外に言及しないのが気持ち悪い
TPPは(Trans-Pacific Partnersip)ですからFTA(自由貿易協定)ではなくEPA(経済連携協定)です。関税撤廃だけではなく31分野を網羅した協定です。知的財産の保護や投資、労働、競争政策、紛争解決など、じつはモノの貿易よりも重大な影響をもたらす分野が多く含まれています。報道では「食の安全」つまり遺伝子組み換え食品の表示義務(アメリカにはない)や食品添加物(認められている添加物は日本約650種類に対してアメリカ約1600種類)については辛うじて消費者の不安として触れられていましたがまともな解説は見当たりません。
交渉の大きな壁となっていた医薬品データの保護期間、アメリカは12年に対してオーストラリア、ニュージーランド、チリその他多くの参加国が5年を要求していました。保護期間が短いほどジェネリック薬が販売でき、各国の社会保障費における医療費負担を軽減することができます。もっとも高齢化が進んでいてもっとも財政赤字の対GDP比が大きい日本にとって譲れない問題だと言えます。ところが日本は5年を要求する国々と協力してアメリカと交渉するのではなく反対にこれらを8年でどうかと説得してまわったのです。このほかにも混合診療(保険がきかない自由診療との組み合わせ)の解禁などアメリカに有利な条項がたくさん含まれています。
そして極めつけはISD(Investor State Dispute Settlement)条項です。これは外国企業が政府を訴えることができるというものです。これが乱発されると国内で保護されている分野が訴訟によって自由化されることになるのですから、議会制民主主義の根幹に触れるものだと専門家が懸念する分野です。どうでしょうか。難問山積のなかで、輸入品が安くなります報道は気持ち悪いのです。
(6)「大筋合意」が気持ち悪い
「大筋合意」ってなに?過去の通商交渉で聞いたことがありません。「大筋」という限り「正式合意」ではないことはわかります。まだ協定文すらないのですから。しかしメディアは大筋合意の意味に触れることもなく「人口8億人、世界GDP4割を占める世界最大の自由貿易圏が誕生する」(日誌資料5)と大騒ぎです。
「大筋合意」というのは完全な官僚用語です。しかもTPP交渉で交わされたどの文章にもそれにあたる英語は見当たりません。日本の交渉官が「年内妥結が見えてきた」というときに使っていた言葉です。よくもこんな意味不明の言葉をNHKも日本経済新聞も平気で使うものです。気持ち悪い。
しかも常識的に考えてこの「大筋合意」が「正式合意」になって協定が発効するにはかなり長く険しい道のりが予想されています。なによりアメリカで来年中に批准されるかというとそうとう怪しいのです。現在の合意をもとに大統領が法案を議会に提出するには90日間かけなくてはなりません(今回そう決めたのです)。すると議会審議は来年春、大統領選挙が本格化していく最中です。共和党がオバマ・レガシーを支持するはずがありませんし、民主党の有力候補も雇用に悪影響がありうるという理由からこぞってTPPを批判し始めています。
日本くらいなものです。そうそうに政府与党が農業対策費に言及しているのは。TPPはまだ決まっていませんが、来年の参議院選挙は決まっているからです。今回のアトランタ閣僚会議は日本の強い要請で開催されたといいます。この時期に何も決まらなければTPPの「漂流」は決定的になります。それは安倍政権にとって大打撃になったでしょう。かなり見通しは悪いけど漂流したわけではない、そんな「大筋合意」を疑問符なく報道するメディアが気持ち悪いのです。
日誌資料
09/30
・世界で株安 時価総額1400兆円減 資源安、企業に打撃 <1> <2>
世界株価時価総額は5月末77兆ドル弱から12兆ドル(16%)減 VW不正問題も影響
・待機児童5年ぶり増2.3万人(4月時点)定員拡充も追いつかず
働く女性増 保育需要鮮明に 保育士確保難しく17年度末7万人不足の試算も
・インド今年4回目利下げ0.5% 成長鈍化を回避 原油安恩恵で物価抑制に自信
・ベトナム6.5%成長(1-9月)5年ぶり高水準 スマホなど輸出好調
サムスン、マイクロソフト(ノキア)などが工場を持つスマホの一大拠点 縫製品も11%増
10/01
・日本鉱工業生産8月0.5%低下 中国減速で下振れ 崩れる増産シナリオ
・ユーロ圏、物価0.1%下落 9月、半年ぶり 欧州中銀は動向注視
10/02
・TPP、突破口見えず 医薬品・車部品探り合い 協議日程延長論も浮上
自動車の原産地規制:加盟国からの部品の調達が少ない日本、多いメキシコ
乳製品:NZが輸入枠拡大を要求 日米、カナダが難色
新薬のデータ保護期間:アメリカは12年 豪、NZ、チリ、ペルーなど5年
10/03
・TPP大筋合意へ延長戦(閣僚会合:アトランタ)医薬品、最後の壁に
新薬データ保護期間、日本が8年で調整役
・物価見通し下方修正へ 日銀、2%達成先送り検討 経済成長率見通しも<3>
・米雇用、14万人増に鈍化(9月) 利上げ慎重論拡大も
雇用回復の目安とされる20万人に2カ月連続で届かず
・東南アジア新車販売28カ月ぶり増(8月) 先行きには不透明感
域内1位のインドネシアは6%減、2位のタイは10%減 マレーシアが伸びる
10/04
・TPP合意へ攻防 医薬品調整続く 交渉さらに1日延長へ
2日間日程から予備日を使って4日目にさらに延長へ
10/05
・日本実質賃金8月0.2%増も6-8月では1.0%減 消費引き上げ不透明
10/06
・TPP大筋合意 12ヵ国31分野で協定 関税撤廃・知財まで網羅 <4>
人口約8億人、世界のGDPの4割近くを占める最大の自由貿易圏 <5>
日本では肉やワイン、輸入品安く コメ・畜産は競争の風 <6>
発効、なおハードル 議会対策・選挙、各国に課題 <7>
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