「 週間国際経済 」一覧

週間国際経済2019(29) No.197 09/07~09/16

今週のポイント解説(29) 09/07~09/16

「ゴールポストを動かす」

1.学生たちの韓国批判

ぼくは授業の中で時事問題を取り入れているから、こじれた日韓問題についても学生たちの受講コメントから様々な意見と出会うことができる。もちろんその中には韓国を批判するものも多いわけだが、興味深いのはそこに共通するのが「ゴールポストを動かす」というフレーズだったのだ。「慰安婦問題」を巡って安倍さんが使い始めたと記憶している。

「うまいこと言う」類の短い言葉はとても便利だから、よしんば深く考えることがなくとも拡散するものだ。”moving goalpost”は、イギリスやアメリカの英語辞書にも載っているれっきとした外交上のイディオムだ。もちろん「良くないこと」というニュアンスが強い。

でもぼくがよく理解できないのは、一般論としておよそゴールポストが動かない外交交渉というものがあるだろうか、ということだ。例えば最近では、イギリスのEU離脱交渉。イギリスとEU相互の合意(ゴールポスト)は動き続けているし、ジョンソンさんはまたそのゴールポストを動かすことを公約にして首相になった。日本関連でいえば、ロシアとの北方領土交渉はどうだろう。従来とは違った「新しいアプローチ」とやらは、むしろ建設的なゴールの動かし方として評価する向きもある。

だから問題ない、ということではないが、国際的合意(それが条約であれ協定であれ、慰安婦問題のように外相レベルの文章もない共同会見であれ)は、金輪際動かしてはならない、見直しを提案してもいけない、そんな「学説」に誰もがみな立脚してしまっているのならば、それはいかがなものだろうか。むしろ日米地位協定のように一切見直そうともしないケースのほうが希なのに。

ぼくは日韓関係でゴールポストが動く問題を考える場合、避けて通れない課題があると考えている。それは、そもそも互いに違うキックオフのポイントからゲームが始まっているという難題だ。

2.キックオフ・ポイントが違う

直接的なキックオフ・ポイントは1965年の日韓基本条約と請求権・経済協力協定だ。この「請求権・経済協力」というのは韓国が要求する賠償ではなくて請求権であり、またその請求権を経済協力方式で解決するというものだった。

だからこの問題は解決済みというのが安倍政権の「国際法認識」であり、いや個人の企業に対する請求権は消滅していないというのが韓国大法院(最高裁)の判断だ。この齟齬を国際法上どのように見るのかについては諸説あるようだが、ぼくは政治的に解決するしかないと思っている。ところが、これがなかなか上手くいかずにこじれている。

すこしキックオフ・ポイントを遡ってみよう。日本が外交主権を回復したのは1952年のサンフランシスコ講和条約の発効だが、ソ連は調印せず、中国は呼ばれもせず、当時は東西冷戦下での西側だけでの「片面講和」とか「単独講和」だと批判する人々も多かった。こうして(西側で)外交主権を回復した日本は、ただちに韓国および台湾との国交正常化交渉を開始した。だから韓国との国交正常化には14年間の歳月がかかったということだ。

ここで問題となったのは、キックオフ・ポイントがさらに遡ること1910年の日韓併合条約だ。日本側はこれを合法的なものだったと主張し、韓国側は武力によって強制された不当なものだったと主張する。しかし新しく条約を結ぶには、旧条約の「無効」を確認しなければならない。さて、日韓併合条約はどの時点で無効になったのか。もちろん韓国側は「そもそも無効」だと考えているし、日本側は「当時は合法だった」と考える。なかなかこの溝を埋めることができなかった。

3.「すでに無効」

日韓条約の本文は、英語だ。解釈の相違は、この英文を翻訳しなさいということだった。日韓双方とも旧条約は無効(null and void)だという確認はとれている。さてその無効の起点についてはなんと、「すでに」(already)という一語を挿入するということで決着した。

悪文の英文読解ほど受験生を困らせるものはない。でも政治的には「とりあえず」好都合だった。日本側も韓国側もそれぞれの国会でそれぞれの解釈を答弁してことを収めた。ここでキックオフ・ポイントが違うゲームのホイッスルが鳴った。

でもなぜ、いきなり慌てて決着しようとしたのだろう。かいつまんで1965年当時の事情をみてみよう。まずはアメリカだ。日韓条約が仮調印された1965年2月に、アメリカ軍は北ベトナムに対する爆撃「北爆」を開始した。同時に「ドル危機」が深刻化していた。日本は1960年に日米安全保障条約を改定し、朝鮮戦争を跳躍台にした高度成長も曲がり角にさしかかり、低賃金労働力を求めて対外投資先が欲しかった。1965年に日本の貿易収支は黒字に転じ、アメリカからドル防衛のための「肩代わり」要求を受けていた。韓国では1961年の軍事クーデターで政権を奪取した朴政権が、経済開発資金の調達に迫られていた。6月に日韓条約は調印され、9月に韓国はベトナム戦争への派兵を決めた。

日米韓の経済および安全保障上の利害一致。これがキックオフ・ポイントの違うゲームを成立させ、歴史認識問題は先送りされた。そしてこの利害一致がブレだすと、キックオフ・ポイントの違いが問題化し、ゴールポストは動き出す。 

4.新しいキックオフ・ポイント

日韓条約には、もうひとつ重大な問題が残されていた。日本はなぜ、「韓国とだけ」国交正常化に向かったのか。つまり北朝鮮との国交正常化。それにともなう賠償、あるいは請求権はどうなるのか。

1948年、38度線以南だけで国連監視下の総選挙が強行され、そこで成立した大韓民国を国連は「唯一正当な政府」として承認した。だから日本は韓国と交渉する。そこで問題になるのは、それではその韓国政府の管轄権(支配がおよぶ地域)はどこなのか、朝鮮戦争休戦ライン以南なのか、それとも朝鮮半島全域なのか。

かくも基本的な問題もまた、日韓間で合意することもなく日韓条約は結ばれた。当時の日本政府は、将来のことを考えて朝鮮半島の北半分については「白紙」の状態にしておこうと考えていた。そして東西冷戦のもとでは、白紙の状態でやり過ごせてきた。

しかし冷戦が終結し、日本と中国、ロシアとの経済関係が急進展するなかで、この白紙はどうも具合が悪い。少なくとも日朝国交正常化交渉は、始めなくてはならない。始めてはみたが、拉致問題の解決が条件になった。ここに完全な非核化が条件に加わった。しかし米朝関係の激変を受けて、ついに安倍政権は前提条件抜きに金正恩さんと会うと言い出した。

54年前のズレが、再び問い直されることになる。だからこそ日本も韓国も、今このズレで絶対に譲れない。しかし、過去のキックオフ・ポイントから北朝鮮とゲームを始めることは、ありえない。54年前の日米韓の利害一致は、過去のものだからだ。

5.新しい利害一致からのキックオフ

韓国文在寅政権は、様々な偶然の要素が重なったこともあって、朝鮮問題を劇的に前進させることに成功している。「分断時代の克服」に向けて、南北の「和合と共栄」を訴える姿勢には全面的に同意する。

しかし「分断時代」の起源は「植民地時代」であり、植民地時代の克服に向けて、今や「日本市民との和合と共栄」が不可欠になっている、少なくともそれを呼びかけ続ける姿勢が求められると、ぼくは思う。植民地時代は朝鮮史であり、日本史であり、そして世界史だ。分断時代は世界史からの「遅れ」であり、その克服は新しい世界史を切り開く。

たしかに韓国経済は中国に大きく依存し、相対的に日本の比重は低下しているように見える。しかしそれは、日韓の国際分業の利益が日中韓(および東南アジア)の国際分業の利益へと拡大深化している過程を表しているのであり、この相互利益構造に北朝鮮が参加することが今、課題となっているのだ。

だから「南北統一で日本との競争に勝つ」などという発想にはまったく同意できない。南北対話は、米朝国交正常化、日朝国交正常化という新しい利害一致からのキックオフ・ポイントを共有しなければ進展しえない。文在寅政権は、「統一」と「反日」が共倒れのイデオロギーとなるリスクを警戒しなければならない。

嘆かわしいのは、「反日」あるいは「嫌韓」が支持率に票に結びつく政治状況だ。メディアの責任も大きいかもしれない。たしかに日本では週刊誌やワイドショーといった斜陽産業が「嫌韓特需」に沸いている。しかしそのマーケットは、日韓友好マーケット(貿易、インバウンド、文化交流、金融協力、安全保障コスト)と比べれば微々たるもので、将来性のある投資先でもない。
 

ある学生の質問。「日韓問題について先生の在日としての意見を聞きたい」。ぼくは答える、「そんなもの、ないよ」。ここは経済学の教室で、ぼくとあなたはともに経済学を学んでいる。さて、経済学の大前提はなんだろう。消費者は「効用」の最大化を、企業は「利益」の最大化を目的として「合理的に選択」する。

日韓関係の合理的選択は、日本と韓国の、そして東アジアの人々の効用、利益、すなわち幸福につながっている。ぼくたちは過去を知り、今を理解し、新たなキックオフ・ポイントに立って、そこから「ゴールポストを動かす」ことを、恐れない。

日誌資料

  1. 09/07

    ・米雇用8月、13万人増に減速 市場予測下回る 貿易戦争重荷に
    ・中国、預金準備率下げ 8か月ぶり 貿易摩擦受け景気下支え
    ・英、離脱延期法案成立へ 上院も承認、政権に打撃
  2. 09/09

    ・RCEP閣僚会議 関税・知財合意できず 年内妥結見通せず
    ・中国、輸出入とも減 8月、対米が大幅マイナス <1>
    ・経常黒字、7月1.3%減 5カ月連続 貿易赤字が拡大
  3. 09/10

    ・世界の直接投資先 租税回避地が4割弱 IMFの資金移動調査
    ・伊首相「EUと融和} 所信表明演説 前政権の姿勢転換
    ・米、タリバンとの協議中止 アフガン和平、一転暗礁に トランプ氏、公約意識
    ・英、解散総選挙再び否決 下院、首相は窮地に 議会閉会、道見えず <2>
    ・北朝鮮、飛翔体2発 7月25日から8度目
  4. 09/11

    ・米大統領、ボルトン氏解任 北朝鮮政策に影響
    米イラン会談「無条件で」 今月下旬、ポンペオ氏意欲
    ・GAFA、政治の風圧増す 米50州・地域、独禁法調査 競合企業排除を警戒
    ・中国、豚肉高騰で物価高 景気は減速 政府、対策に苦慮 <3>
  5. 09/12

    ・安倍再改造内閣が発足 「社会保障改革総力で」 改憲論議、自民が主導<4>
    ・日韓、WTO紛争処理へ 韓国、半導体輸出管理で提訴 対立長期化は不可避
    ・米、対中関税拡大を延期 来月15日に 「建国70周年」配慮
  6. 09/13

    ・欧州中銀、量的緩和再開 マイナス金利も深掘り 次の壁は「国債不足」
    ・米財政赤字、11月で1兆ドル突破 前年同時期比19%増
    ・グーグル、1150億円支払へ 仏と課税逃れで和解
  7. 09/14

    ・中国、大豆・豚肉対米関税除外へ 協議前に歩み寄り
    ・米、北朝鮮ハッカー制裁 3集団、サイバー攻撃関与か 不正な資金源断つ
    ・GAFA調査圧力強める 米下院 幹部のメール履歴要求
    ・消費増税「賛成」初の5割 世論調査 社会保障費膨張85%「対策必要」<5>
  8. 09/15

    ・中ロが大規模軍事演習 2年連続、米国をけん制
  9. 09/16

    ・イエメン無人機 サウジ石油施設攻撃 「生産半減」原油供給リスク広がる
    米は「イラン関与」主張イランは否定
    ・75歳以上、7人に1人 総務省集計 65歳以上は総人口の28.4%
※PDFでもご覧いただけます
ico_pdf